16代目引退ブログ ナイン

カンボジア一人旅5(+空港泊1)泊目となり、誰かと話したい気持ちが募ってしまったのでせっかくなら、と引退ブログを書き始めました。

これが公開される頃には執行代じゃないんですね。

長かったような、短かったような。

本当に濃密な2年半でした。

 

140字という制限もないので、つらつらと好きなだけ書いていこうと思います。

本当に暇でしょうがなくて、鬱屈とした文章(多分)にメンタルを引っ張られない自信のある方だけ読み進めてください。

特に1年生、きりきりはとっても素敵な団体です。読み進めずここで引き返してください。

 

 

 

 

 

↓は「来年引退する時に書こう」と思ったメモです。

 

引退ブログメモ

スタッフになりたくなかった話

私の大学生生活を斬桐舞でラベリングしたくなかったという話

私がいなくても回る組織でありたかった話

やっぱり共同作業向いてないなと思った話

この人数の同期じゃなければきっと仲良くならなかった話

旗士として、私が残り1年で何ができるんだろう、どこまでうまくなれるんだろうと思った話

先輩はやっぱり偉大だった話

縁の下の力持ちがいるだけじゃ組織は回らない話

2023/11

 

まずは、これらを覚えてる範囲で書いていこうと思います。とりあえずスタッフ関連からにしようかな。

 

-スタッフになりたくなかった話―

 

そもそも

斬桐舞に入ったのは「同期に誘われたから」

スタッフを引き受けたのは「人数がいないから」

 

よさこいにも斬桐舞にも消極的な私でしたが、辞めなかったのは「同期の存在」と「旗士としての責任」の2つが強固すぎたからですね。旗の話はまた後でするとして。

 

中学の学年主任の「迷ったらYES」という言葉を何だかんだ大事にしていて、誘われた練習見学に何となく行き、そこにいた沙蘭さんの踊りを見て入舞を決めました。

「あんなギャルみたいな人が真剣に踊ってる。きっとそれだけ惹きつけるものがあるんだろうな」と(初対面の偏見で本当に申し訳ないです)。

2で踊ったよっちょれをずっと覚えてるくらいにはよさこいが好きだったのもありますが。

 

入舞したら紫瀑の振り入れが始まるわけですが、まあこれが覚えられない。

1個出来たら1個忘れ、右左が分からなくなり、同期には置いていかれ。

「ステージ立てば楽しいよ。写真撮ってもらうの嬉しいよ」

写真を撮られるのが嫌いで、いつまでも踊れない私には、先輩方のその言葉が全然信じられませんでした。

 

衣装買ったら貯金残高が不安だったのと、6月までに振りが覚えられないと思ったので、私は1年生の札幌に出ていません。そのせいで5人しかいない同期が一番大きいお祭りである札幌で揃うことは有りませんでした。何かごめんね。

でも、あの時無理に頑張って振り入れして札幌に出てたら、益々よさこい嫌いになって即辞めていたかもしれないなとも。

 

きりきり関係者には言ってないと思うのですが、14代目の間は「辞めたい。いつなら辞められるかな」とずっと言っていました。

結局、同期がこの人数しかいないので辞めるに辞められず、しかもスタッフになりました。スタッフになってしまったので、辞めるという夢も潰えました。よさこいもきりきりも愛せないような人間がスタッフになるなんて、と思っていた時期もあったんですが、いつの間にかどっちも結構好きです。人って変わるものですね。

 

あの時辞めなくて良かったなぁ。

 

 

―私の大学生活を斬桐舞でラベリングしたくなかったという話―

 

 辞めたいと思っていた理由の一つでもあるのですが、

同期5人→スタッフやるしかない→「大学生活=斬桐舞」の方程式が完成してしまう

と思っていた時期がありまして。

 前述の通り、当時はよさこいに愛が全然なくて、でもスタッフになったら相当な時間をきりきりに割かなきゃいけなくなるはずで。すぐにでも辞めなければ、好きじゃないものに大学生活侵食されて何もなくなっちゃうとさえ思っていたんですね。

 

 でも、きりきりに入って、好きなものも、興味のままに飛び込んでみることも、大事な想い出も、友達も増えました。勢いでたくさん旅行もお散歩もしました。入らなかったら出会えなかったもの、見られなかった景色がきっとたくさんあります。

 きりきりに所属し続ける道を選んだけど、むしろラベルが増えたんじゃないかなぁ。

 

 

―私がいなくても回る組織でありたかった話―

 

 スタッフになると腹を括ったようでいて、どこかで辞められるような逃げ道が欲しかったって話をしたかったような。

 先輩方ほどは愛情がなくてきっと同じように運営は出来ないはずだから、その化けの皮が剥がれた時の退路がないと怖かったのかな。メモの情報量だけじゃ思い出せないけど。

 

 

―やっぱり共同作業向いてないなと思った話―

 

 これね、書いてあること以上は本当に思い出せないんだよなぁ。何に対して思ってたんだっけなぁ。

 

 

―先輩はやっぱり偉大だった話―

 

 スタッフになって、嘘偽りなく1個上の先輩方は本当にすごいなと思うようになって。全然信じてもらえないんですけど。

 

 私が今まで生徒会とか部のまとめ役とか経験してきた中で、「この先輩についていきたい!カッコイイ!」と思ったことが無かったんですね。役割があってもどこか手抜きで、周りも何となくついていってて、こうなりたいと思えるような輝きはない上級生しかいなかった。もちろん仲良くしてた先輩はいたけど、運営面で惹かれた訳じゃなかった。

 

 15代目では現4年と一緒にスタッフをして、確かに「この仕事早くやって欲しい」とか「こうやった方が上手くいくんじゃないか」とか思った場面もないこともないんですが、それ以上に「この人たち何でここまでできるんだろう」と感嘆し恐れ慄きひれ伏した場面の方が圧倒的に多いんですね。

 練習では振り入れもF練も回せるし、お祭りでは我々に振る仕事もほぼ無いくらいには自分たちでやっちゃうし、何より人との関わり方が上手い。そして、大変なんて愚痴は後輩に溢さない。

 これが社会人や大学生としての当たり前の姿なわけではきっとなくて、この人たちが相当努力したんだろうなぁとひしひしと感じるそれ。

 

 自分達の引退を前にして、改めて思いました。先輩方すげーなって。

 

 15代目だけじゃなくて皆さん凄いし偉大なんですけど、15代目と一緒に仕事出来て本当に価値観変わったなぁと思ってます。信じてください。

 

 

―縁の下の力持ちがいるだけじゃ組織は回らない話―

 

 16代目に代替わりするにあたり、結構な時間かけて最適な布陣について議論しました。

「同期4人で執行代持つ中で1人でも消えたら運営持たないから、全員で引退まで持つ布陣を考えるしかない」

そうやって決まったのが現役職です。結果 てい に莫大な負担が行ってしまったのは本当に申し訳なかったんだけど。ごめんね。そして最後まで務めてくれてありがとう。

 

 私自身は、振り回すことは出来るけど引っ張る力は弱くて、かつ人前に立つより裏で環境整える方が得意なタイプだと思っているんですね。自己分析なので傍から見たらどうなのか分からないんですが。書類作ったり、各所にコンタクト取って言質取ったり裏取りしたりして、リーダーが指示飛ばすまでの障害を取り除く仕事の方が好き。あんまりにもリーダーに不向き。

 

 でもこれって、16代目なら てい がいて初めて意味を成す裏作業。私もちょっとは前に立つこともあったけど、彼女がそこにあってこその16代目。果たして役に立ってたのかな。この布陣、最適だったのかな。

 

組織って根回ししてるだけじゃ回らない。色々な立場の人が必要。きっと。

 

 

―この人数の同期じゃなければきっと仲良くならなかった話―

 

 度々口にしているし言われることではあるんですが、同期が5人しかいなくて全員がぶっ飛んでるんですね。誇張じゃなく心からそう思ってます。そして皆さんもそれを知ってると信じています。

 5人なんて派閥出来ても喧嘩しても終わりだし、その数字から「絶対に仲良くしなきゃいけないよ」という圧を感じていました。なのにこんなメンツで。どうやって仲良くするんだよと思ってましたね。え?私だけ?

 

 多少の衝突も経ましたが、2年半も5人でずっと一緒にいれば仲良くなってくるもんです。

行動パターンも、会話も、だいぶ波長が合ってきたんじゃないでしょうか。謎のしゃっくりにも新体操にも耐性が付き、独特の会話テンポにも慣れました。お互いちょっとずつ歩み寄って変わって、そうやって時間を積み重ねてきたんだと思います。ららどすが随分喋るようになったことを後輩はなかなか信じてくれないのが悲しいところですが。

 

 しょーもないことで笑い転げてて、食べることが大好きで、自炊会ではとんでもない量を平らげて、芝生でも体育館でもお構いなく寝られて、人見知りで結局同期で過ごすのが多くて、仲良い筈なのに全然出かける予定の立たない、そんな同期でした。最高だね。

 

 そんな同期と一緒に執行代としての1年間、楽しいこともあったけど、4人で常に踏ん張ってスタッフを頑張ってきました。

無茶な演舞依頼にも、舞員からの要望意見その他のお声にも、いつまで経っても速達郵便さえ分配してくれない文さ連にも、やること多すぎ万年人手不足のお祭りにも、外部との人間関係にも、その他たくさんのことにも自分たちなりの解を出して向き合ってきました。OGOBの方々からしたら、諸先輩方からしたら、後輩たちからしたら、間違った選択もきっとあったと思います。でも、最大限譲歩して、それでも駄目で諦めて譲歩の許容範囲超えて譲歩して、限界まで頑張ってきた同期達をこっそり労ってくれたら嬉しいなぁと思います。私はほっといてもらって良いので。

 

同期へ。

頑張ったね。お疲れ様。一緒に引退できたね。ありがとう。

 

同期の話、最後の締めに取っておきたかったのにここでまとまっちゃいそう。まあいいや。

 

 

―旗士として、私が残り1年で何ができるんだろう、どこまでうまくなれるんだろうと思った話―

 

 2年の神栖。ライトに照らされ、自分達のためのステージで、自分たちの演舞がその場を支配していくようで、恍惚とした気分だったファイナル審査。

 あの風で2日間振り続けた自分には、最後の演舞では旗振るのが精いっぱいでその先の景色を楽しむ余裕なんてほとんどなかった。旗士としての意地と、皆の背中と、隣で振ってるもんさんと、残ってるちょっとの体力があったからどうにか振り切れた。今でも覚えてるとっても大事な演舞の1つ。旗振れることが、ステージに立てることが楽しかった。でも、それ以上に悔しかった。

大賞チームはもう一本演舞をしていて、上位チームは私よりずっとずっと旗が上手くて。踊り子なんか目に入らないくらい、食い入るように旗を見ていました。

「一年後、この域まで到達できないと上位にはなれねぇんだ」

旗士としてのリミットと技量の壁を強く実感したそんなお祭りでした。

 

3年の神栖、強豪チーム多すぎて戦う気にもなれなかったってのはここだけの話。

 

 

 やっと去年のメモ消費した。去年の私、メモ残し過ぎね。書きたかったこと本当にこんな内容だったか自信がないけど。

 ここからは、今の私が書きたいことを書いていこうかな。

 

 

―『宝常』制作の話―

 

 そもそもは「本当に制作するのか」という議論から始まった本楽曲。今では作って良かったと思える本当に大好きな一曲になりました。

 

 同期のスタッフが4人で練習とお祭りだけでも手一杯な中で、紫瀑をもう1年踊る選択肢もありました。1個下の方が人数も多いし、作るなら彼らに託した方が良いのではという想いもありました。でも、2年に一度作るという流れを崩したくなかったのと、今自分達が作らなければオリ曲制作のノウハウが消えてしまい二度と作れなくなるかもしれない、と腹を括りました。

 作ると決めてからは、何度も何度も同期MTを深夜までやってましたね。曲の案出しから会議の進め方からスケジュールの相談まで全て、本当にたくさん話し合いました。新曲全体MTをやる前に自分達の方針が決まってないと曲の方針がぶれてしまうかもしれないから、意見出ないと困るから叩き台を用意しなければ、と毎回必死でした。

 楽曲の方針が決まってからは、各班でそれぞれの時期にそれぞれの制作が待っていて。みんなほんとに頑張ってくれたなぁ、と。特に完成後も最前で練習を見てF作って…と今も頑張ってくれてる振り班には頭が上がりません。お疲れ様。ありがとう。曲班、いい曲と口上をありがとう。

 

 美術不得意の人間のくせして衣装班と旗班を持っていたんですが、メンバーのセンスでどうにかなりました。メンバーに恵まれましたね。

 

スケジュールぎりぎりまでMTして衣装を考えていて、「ベストな選択をし続けることが最高の衣装を作るわけではないのかもしれない」と思い始めました。

もっと考え続ければ最高の選択が出来たかもしれない。でも「そのパーツでの最高の選択」×Nが組み合わさった衣装って果たして最高なのだろうか。納期を遅らせてでも考え続けベストな選択が見つからなかった時、遅らせるという判断自体が悪手となるのではないか。そもそも人の感性で評価される衣装で、最高ってなんだろう。

1人で本当に色々考えました。だって衣装は2年間変えられないから。きっと別の世界線にはもっと良い衣装が完成したものもあると思う。まるで進化の過程のように、あのMTで私が取らなかった選択肢の先にも別の完成形が存在していたはず。

そんな可能性を頭から追い出せずに、でもスケジュール第一に選択を重ねました。絶対に新歓祭で新入生に宝常を見てほしくて、法被裏返す衣装替えと鳴子の出し入れの練習時間をどうしても確保したくて。私の意地です。

そのせいで、衣装班には「この日までに納品してほしいから、これはこの日までに決めないと間に合わない」と急かす場面も多かったと思います。ごめんなさい。

 

でも、新歓祭の衣装練で皆が衣装を着て踊っているのを見て、「もうこの曲は大丈夫だ」と思えました。もしかしたらもっと良い衣装があったかもしれないけど、とっても素敵な衣装に仕上がってたんだなと。曲があって、振りがあって、そこに踊り子がいて、衣装が動いていて、静止画がアニメーションに変わる瞬間のような、丹精込めて育てたものに息が吹き込まれたような、そんな素敵な瞬間でした。

 

 こだわり抜いた衣装をたくさん褒めていただけて、憧れだったリバーシブル法被も法被腰巻での旗士も出来てとっても満足です。拘って作ったリバーシブルの法被なのに、旗だから全然衣装替えの経験ないけどね。

 

 いばよさの動画見て、「人生何周してもこれ以上の曲は作れなかっただろうな」と思いました。それくらい好きな曲になりました。後輩たちはきっとあっさり宝常を越えて行ってくれるんだろうなと信じて、この話はここら辺で。

 

 

―きりきりに入って良かったこと―

 

2年半のネガキャンばかりしてるとミスミ辺りに怒られそうなので、ここらで入って良かったことをいくつか。

 

 第一には、ちゃんと大学生になれたことじゃないでしょうか。

 同期ができて度々自炊会したり出掛けたり誕生日会したり、先輩後輩とご飯に行ったり出掛けたり遊んだり飲み会したり…。かと思ったらお祭りに出て笑顔ではっちゃけてみたり、かっこよく踊ってみちゃったり。どこからどう見てもキラキラ大学生のそれで。

 高校まで、人前に立つことはあってもどこか親の目や先生方の目を気にして弾けきれなかった自分が、全力でふざけて屈託のない顔で笑っていたり、写真を撮ろう映ろうという気分になっていたりと、本当に変わったもんです。高校の先生にも「憑き物が落ちたみたい。きっと大学が楽しいのね」と言わせたほどだったので、きっと余程なのでしょう。

 なりたかった大学生としての姿がここにありました。

 

 第二に、世界が広がったことですかね。

 「ラベリングしたくなかった話」のくだりで、好きなもの増えて…って書いたと思うんですが、飛び込む度胸と好奇心と気力と「好きなものを好きだと言える勇気」が付いたと思っていて。

 度胸自体は元々あって色々経験してきたんですが、勉強関連の「周囲の大人の目を気にした挑戦」が多かったというか。度胸発揮の幅が狭かったというか。

 でも、いろんな人と出会って、いろんなものを見て聞いて、「今しかできない(かもしれない)ことを今やらなくてどうするんだろう」と思うようになりました。推し活もライブもスキー場でのバイトもスノボもシンガポールもカンボジアも友達との時間も他のことも、やらないで後悔するくらいなら飛び込んで失敗すれば良いやと。好きなものを好きだというのに膨大な知識とか費やした時間とかの前提条件なんてないんだと。

 やりたいと思った時にお金が理由で諦めることが無いように、一定額は貯金して残しておくこと、そして、使うときは躊躇しないことを決めました。貯める一方だった昔に比べ、随分と経済を回すようになったものです。

 

 第三に、お祭り楽しい!!担当だとそんなに楽しめなかったりするけど!

 中高までは斜に構えてお祭りを見ていたのが、あれだけたくさんの人を動かす熱量って凄いなぁ屋台飯美味しいなぁ演者って良いなぁと思えるようになりました。

 

 とまあこんな感じでどうでしょうか。随分マイナススタートなきりきりライフでしたがとっても楽しかったです。

 

 

―お祭り振り返り―

 

 きりきり祭で出たお祭りをせっかく可視化したところですし、思い出深いものをちょっと振り返ってみようかなのコーナー。といっても旗以外のことあんまりないんだよね。よってメモ程度に。お祭り~一言感想を添えて~

 

1

 デビュー戦のやど祭。ららどすが公園の遊具で遊んでた印象しかない。振りもうろ覚えのその場ノリで、表情が今よりずっと硬くて初々しい。紫瀑衣装に憧れたなぁ。

 研究学園で足袋ドロドロにしながら踊りまくったまつりつくば。何故か2日目のみの参加で皆より余力があった。総踊りでお客さん近いの結構好きだなと自覚。ていが雑草を移植して畑作ってた。

 実は紫瀑デビューだった祭りゆうき。多分やど祭より不安そうな顔してるし、色々振り間違ってる。踊んの怖いなでもちょっと楽しかったなと思った。ららどすが恐竜の遊具に登ってた。

 旗士として今後の覚悟を決めたどりよさ。先輩方の背中が頼もしくて、初めてのパレードが難しくて、皆みたいに踊れたら楽しいんだろうなと思ってた。きりきり人生の踊り納めになるだろうから悔いないようにと覚悟決めてたのに、3年になってもオリ曲踊ることになるなんて。旗士になるってことは今のあつろうさんくらい旗振れるようにならなきゃいけないんだと、その道のりにちょっと絶望してたり。同期4人参加で2人×2部屋だったのに、セミダブル(多分)に2人で寝たから1部屋使わなかった。もう時効だよね…?

 黒潮。これはもう旗のことしか考えられなかった。ほんとに記憶ない。あまりに不安で、旗竿が折れそうで、3演舞立ってるだけで万々歳だった。今ならあの風でも振れるのか気になってしょうがない。よさこいをこの先も続けるなら旗士としてリベンジしたいランキング1位。

 旗士として出るお祭りとしては2つ目のサクラタウン。黒潮より心に余裕出来たかと思いきや、旗の共演あって瀕死。初担当だったのに帰りに保健バック忘れましたごめんなさい。ここら辺から遊具のある公園が近くにあるとららどすに行くか確認してる。

 

2

 新歓、お披露目はほんとに旗の記憶。旗カッコイイと思ってくれる新入生欲しくてしょうがなかった。1年生入ってねってより、こんなに楽しいけど見ないの?って思ってた。

 まさか踊ると思ってなかったいばよさ。振りなんて全然上手くなってなかったけど、お客さんに「見て!!楽しいんだよ!!!」って押し付けることができるようになった。「今私がここでこの人に演舞を届けなきゃ、後は通り過ぎちゃって後ろ姿を見続けるしかない。この人に良い演舞だったなって感想を残したいな」という思考になってた。旗士になっても(というより旗の方が強くそう思う)変わらないマインドがここで形成。ららどすが1人で袋田の滝見に行ってたのと、宿取れなさ過ぎて福島の宿に泊まったのが印象深い。温泉良かったなぁ。朝ご飯付けなかったのは私のミス。福島県、良いところなんですよ。ぜひ良しなに。

 初飛行機からの札幌。どうせ北海道に来たなら観光したくてしょうがなくて、時計台も植物園も北大クラーク像も見に行った。演舞は本当に悔しくて、申し訳なくて、引きずったなぁ。

 フル参戦のまつりつくば。2日とも旗振ってるか踊ってるかどっちかなの本当に頭おかしかった。振ってるか休憩かで交代かなって言ってたのに。でもそれが最高に旗士してて楽しかった。絶対お客さんの祭りの記憶に残ったやるってギラギラしてたな。屋台多すぎて、お客さん多すぎて本当に楽しかった。

 強風でお馴染の神栖。旗士1年目の集大成みたいなもん。間違いなく1個のターニングポイント。旗竿より先に心が折れそうだった。

 ビル風とやりづらい形状のステージの東京。何か上手くできなくて、その原因が分からなくて、誰とも喋りたくなくて、北海道物産展満喫してた。今考えれば、横風への対処ができなさ過ぎて凹んでたのが大きいのかなと思っている。あの時買った液体昆布だしが気に入りすぎて、札幌行って自分用と親への布教用を買った。

 2回目のゆうき。夢煙火の旗の難しさを知った。芋煮は絶対醬油ベースが美味しいことを布教したかった。雨対応が結構大変だった。

 初めての雙峰祭。本当に狭くてびっくり。旗の構成1から考え直し。踊り子もだけど。振れなさすぎて未だに動画見れてない。でも、知り合いがいっぱいいて、自分達のためだけの空間で、最高の舞台だったのはちゃんと覚えてる。出店は学祭感強くて、コロナ禍で消えた高校時代の文化祭思い返してた。青春感あって良いなこういうの。

 サクラタウン。初の3本構成。紫瀑の踊り納め。納得のいく出来ではなかったけど、旗士増えてほくほくしてた。

 

3

 新歓祭・お披露目会での宝常披露。大事に育ててきた曲の披露の場には不足な気もしたけど、1年生こんなに入ったんだもん。大役果たしたよきっと。

 旗士として初のいばよさ。狭い。本当に。何回か店の看板とかにぶつかってる。旗の写真が綺麗すぎて嬉しかった。1日目は風強いし旗士1人しかいないしで不安そうな、でもパレードの狭さ初体験できるのと宝常振れるのが楽しみな顔してて、2日目は2人いる安心感でにこにこしてた。1人で好き勝手振るのも好き。あの自由さは2本じゃ出せない。でも、2本の動き揃ってんのも、仮にミスってもどうにかなるという安心感があるのも捨てがたい。にこにこしてたのは見に来ないと思ってた親来たのもあるな。妹との会話があまりにも普段通り過ぎるって言われた。そりゃそうだろ。

 やど祭。動画見られない演舞1位。ほんとに先輩方に申し訳なさ過ぎて、あんまりにもダサすぎて。旗の共演は感動したね。でも見れない。

 去年の札幌と直前のやど祭のトラウマを引きずりまくって始まった札幌。隣のこりーくんの前でダサい旗振ってられねぇなと、もんさんにこれ以上ダサい報告できねぇなと思って頑張った。りんしーと、飛行機の時間勘違いしてた てい と後泊して札幌満喫したね。羊可愛い。

 初の光が丘。宝常を初めてお祭り踊るってなって、1年生より不安そうな顔してF練して臨んだ。二度と最前とか無理。踊れん。あんまりご飯食べる気にもなれなかった。でも、Fに入ってやっと、旗と踊りが完全に馴染んだ気もするし悪くなかったのかもしれない。

 3年間で一番踊らなかったまつりつくば。雨で旗を諦めた。振るの楽しみにしてたんだけどなぁ。へとへとになるまで踊るのも旗振るのも好きなんだよなぁ。1日目、ねぶた準備後にららどすが黒染めに行ったけど、3年間で一番の奇行だったんじゃないかと思ってる。

 相変わらずの風でお馴染の神栖。1年分の多少の成長を経て、どんな風でもどんとこいって思ってた。でもミスも多くて、旗ってまだまだ先があるんだなと思った。1日目は寝不足で、2日目は疲労と暑さが半端なくて、隙あらばごろごろしてた。本当は神栖で構成完成にしたかったけど、まだ良くなるなと思ってしまった。ファイナル進出チームの旗見て、ちょっとは近づけたなぁと思えたのは嬉しかった。

 守谷。1本目の無風はあんまり気が入らなくて、2本目はよわーい横風に負けて、本当に格好悪い。悔しい。ご飯は美味しくて好き。

 ブログ書き始めたときにはまだだった東京。横狭いし、かと思ったら縦長いし、謎の紐張ってあるし、ビル風吹くしで楽ではなかった。ひっかけるし、投げたら落とすし全然納得行く演舞ではなかったけど、確かに1年前より成長してたなぁ。ていの口上良かったねぇ。

 3度目のまつりゆうき。去年より夢煙火の振り方が分かってきたのが実感できて、1年の重みを感じた。大ホールが広くて好き勝手振れて楽しかった。振り付けがある曲以外でも振れるようになりたいと思った。ゆうきの時に食べる生どらが一番美味しいまである。

 引退の雙峰祭。全然緊張もなくて、引退する実感もなくて、ただただ旗振れるのが、ステージがあるのが嬉しかった。腕の疲労も、足腰の悲鳴も全部無視して、「滞りなく完遂してやる」って気持ちだけがあった。運営脳に寄り過ぎたのかもしれない。旗士として満足いく演舞ではなくて、妹には「お姉ちゃんのほうが下手だったよ」と言われるし、母親には「ぶつけてたの見てた」と言われる始末で。それでも、「やり残したことはあるけど後悔はない」と思えるステージでした。旗士としての2年間と、斬桐舞としての2年半で培った「ステージを最高に楽しむ気持ち」はあって、満足いくほどは旗振れなかったけどそんなのはどうでも良くなるくらい楽しかった。きっともっと出来ることはあったけど、得たもの全てをぶつけられたんじゃないかな。1個の区切りとしてはちゃんとやり終えた。そんな感覚。

 

 ほとんどのお祭りで同期の面白とか先輩後輩との思い出より先に旗のことが出てきちゃうくらいには旗士背負ってたんだなぁ。

旗の話過ぎて、踊り子が読んで面白い項目ではないなこれ。

 

 

―旗のお話―

 

 最後のトピックとして、きりきりライフで一番向き合い続けたものを残しました。他の話題とも切り離せなくて度々触れてるけど、その比じゃなく書くと思います。こんなに長くて許されるんでしょうか。お祭り振り返りでも旗のことばっかりなのに。

 

 旗は話が多すぎるなぁ…。旗士になった経緯とかから書けば良いのかなぁ。

 

きりきりを辞めなかった理由にも旗のことを挙げたけど、旗士を続けることが私が斬桐舞に存在する意義だったというか。それくらい大きなもので。

 

後輩たちは知らないと思うけど、私の2個上の代が引退して、学生で旗士の人間がいなくなったんですよ(そこら辺のゴタゴタは聞きたかったらこっそり聞いてね)。オリ曲やるには旗要るし急いで育成しなきゃってのでさくらさんと私の2人で急ピッチで練習してました。

誰もいないならやってやるよっていう反骨精神と、小学生の時に鼓笛隊で振ってたフラッグが大好きだったってので名乗りをあげたわけですが、まあ上手く振れなくて。

しかもデビュー戦が黒潮よさこいっていうとんでもない風が吹く会場なわけで。黒潮の時は意地で旗を手放さなかったけど、風強すぎてどうしたら良いか分からないし誰も助けてくれないしで本当に泣きそうでした。

 

黒潮までは「踊り下手で見てられないし事故画しか生成しないし他の踊り子から浮いてるしからお祭りに極力出たくない」だったのが、黒潮以降は「旗士が必要だからお祭りに出なきゃいけない」という義務感に変わりました。それが「学年でただ1人旗士を継いだ責任」だと思ってたし、踊り子があんなに似合うさくらさんか踊りたい時に踊れるようにしたいとも思ってました。

だからこそ「旗士を増やしてお祭り休みたい時に休める団体でありたい」と思って旗士を増やそうと思っていました。今じゃ旗士ローテが出来るほどいっぱいいます。嬉しいね。しかも、旗を振りたい時が多くて休みたいサボりたいと思うこともほとんどなくなりました。

 

最初は義務感が一番だったのが、出来ることが増えてちょっとずつ振れるようになって旗振るのが楽しくなっていきました。

でも他チームでは熟練のおじさま方が旗振ることが多い中でまだまだひよっこ旗士なわけで、風への対処とか曲にあったとか振り方とか全然出来ないんですね。だから、数々の演舞でやらかし、トラウマになって見られない過去演舞が山ほどあります。また上手く旗振れないかもしれないから、もう二度と旗振りたくない会場も何個か。

踊り子の振りミスなんて旗のミスに比べたら些細な規模感(踊り子をバカにしてるわけじゃないんです旗のミスが目立ちすぎると思ってるだけなんです)で、当たり前に綺麗に開くのがどれだけ難しいか…。旗のせいで台無しになった(と私は思っている)演舞の数々…本当にごめんなさい…

 

こんなにあちこちでやらかしてるのに、振り班もきりきりの先輩方も旗士の先輩方も誰も私以外の旗士育てなきゃなって言わないんですよ。肝心な時に振れない旗士要らないから他の人育てるねって。何で皆私のこと諦めてくれないんだろうなぁ、諦めてくれたら私もすっぱり辞められるんだけどなぁという思いを捨てきれませんでした。でも、そんな機会は一向に訪れず…。

だから、この人たちが私をチームの旗士として置いてくれる限り、私も旗を諦めちゃダメだなぁと思いました。きりきりとも旗士とも向き合うしかないんだなと。

旗を振る覚悟は決めていたつもりでしたが、この時改めて、引退まで旗士を背負う覚悟を決めました。こうなったらとことんお祭り出て旗振ってやるって、その期待に応えてみせるよって。いつだったかなぁこう思えたの。

 

 旗の練習を重ね、色々な技を覚えました。新しく出来るようになるのが嬉しくて、出来たと思っても風が吹くと出来ないのが悔しくて、完成形のイメージをひたすら身体に叩き込んできました。いつまでも旗持っての回転ができなくて、旗経験者3人に囲まれて怖くて悔しくて必死に練習したのは良い思い出ですね。

 ここまでお読みの方はお分かりだと思いますが、負けず嫌いで意地っ張りで卑屈で本当に面倒臭い性格してるんです。でも、だからこそ、旗で出来るようになったことも多少はあるんじゃないかなと思っています。

 

 時に自分の旗の振れなさに絶望しながら、時に代々繋がってきた旗士を継いだプレッシャーと責任と闘いながら、それでも旗を振るのが楽しくてしょうがなかった2年間。

 

 紫瀑では、段々と振れるようになるのに合わせて構成にテコ入れをしていきました。4拍・2拍振りから始まり、波と凪、回転、投げ、自由振り、とどんどん新しいことを取り入れ、失敗し、次のお祭りまでに改善してやると躍起だったような気がします。今も大して変わらないのですが。

 旗士1年目の人間がA、B、Cの踊り子に合わせて振るなんてまず無謀でしょう?今ならそう思います。習得してる振り方なんて大してないのに、旗一本で振りを表現するなんて。

 でも、出来るようにならなきゃいけなかったし、出来るようになりたかった。今ほど旗振れる人間いなかったし。結局納得のいくような振り方を見つけることができずに踊り納めを迎えました。紫瀑2年目なのに、旗だけは1年目を越えられてないのが悔しかった。

 

 宝常は、構成を考えることから始まりました。振り班と散々議論を重ね、Fでも譲歩してもらいました。構成の大枠は作ったけど、会場とFによって変更がすぐ生じるので決まってないところの方が多いんじゃないでしょうか。それに当たり前に対応できるようになったんだから成長したんですね。

 曲への理解度が高いのと技術力が付いてきたので、紫瀑より随分振りやすい一曲です。紫瀑の時よりも、踊り子の動きを旗に落とし込めている感覚があります。まだ改善したいところは結構ありますが。

 あと、法被の腰巻ね。紫瀑は紫衣装が袖から出てきちゃってたので随分と振りやすくなりました。

 

構成全部決めたからそのまま振ればそれなりの見栄えがした紫瀑に対して、大まかにしか決めずに完璧なシンクロをゴールには据えなかった宝常。宝常は、風や会場に柔軟に対応出来るし、その場判断でちょくちょく挑戦するのが楽しい。多分振り班的には決めて揃えてほしいだろうなと思いながら、でも旗士として出来るところまでやってやろうという向上心と遊び心の塊みたいな構成になりました。そういう旗士2人で作った、旗2本で遊ぶための構成です。毎回の演舞で振っていてとても楽しい1曲です。

 

 2曲とも大事な曲で、思い入れありますね。

 

 

 こないだ、2年分の旗の動画の全てを見返しました。やりたかったこと、出来なかったこと、その全てが手に取るように思い出せました。楽しいこともあったけどそればかりではなくて、見ていて苦しいものではありましたが、やっとあの時の後悔もトラウマも全て許せたような気がしました。頑張ったね、私。

 

 

 せっかく2年も旗振ってきて色々経験してきたので、旗士だけの特権(かもしれないこと)を紹介します。

 

 1つ目は、振りの変更点・統一ポイントが分からないこと。お祭り前とか極め練とか絶対踊り子に混ざらないので、早いうちに「私には旗と踊り子の行き来は無理だな」と悟りました。旗に専念してきた理由の一つでもありますねこれ。

 

 2つ目は、演舞中でもスマホを持っていられること。踊り子と途中で離れることが多い口上に対して、旗士はずっと後ろについてるので写真撮り放題です。緊張してたり、ワクワクしてたりする皆を撮るのが本当に好き。ちゃんとキメてる写真も良いけど、何気ない瞬間を残すのが結構好き。

 

 3つ目は、振り返った皆の笑顔が見られること。宝常でいえば、0,1部で「いってらっしゃいお客さんを魅せてきてよ」という謎の親心で送り出し、ファンサ前とかの振りむいた瞬間の弾ける笑顔に最後まで振り切る気力を分けてもらい。(みんなが前向いているときは、勝手に「背中は任せて」と思っている。)絶対写真や動画に残らないけど、踊るのが楽しくてしょうがないという笑顔をしている皆が好き。撮られるために、お客さんのためだけに良い顔してるわけじゃ無いんだなとはっきり分かる。旗士だけのとっておきの景色。

 

 4つ目は、最大の敵にして最高の特権である風。2年間で、演舞前はどんなに穏やかでも曲がかかるまで、いや振る瞬間まで風は信用してはいけないことを学びました。旗張るタイミングとか、2拍振りに切り替えるタイミングとか、まるで見計らったように吹いてくるんです。踊り子にとっては良い風かもしれませんが、旗士にとっては地獄、いや天国(笑)の始まりです。

 強い風が吹くとき。それは、時に予想通りだなと苦笑いしながら、時にここからが本番だとワクワクにこにこしながら相方にアイコンタクトを飛ばす瞬間でもあります。

「ほらやっぱりね」

「今日結構飛ばしてきたけど最後まで振れる?」

「楽しくなってきたね」

「私は行けるけど大丈夫そう?笑」

「風強いけどもう少し飛ばさない?笑」

 多分ほとんど伝わってないとは分かってるけど、きっとどうにかなる大丈夫だと思える瞬間。旗竿からも全身からも悲鳴が聞こえるけど、最後まで格好良い旗見せてやるよって不敵な笑みを浮かべてるんじゃないかなぁ。だってこれだけ風と向き合って振ってきたからねという相方と己への信頼によるもの。神栖で旗張ってた時だけは本気で心配したけど笑

 だから、演舞レベルをハードに格上げする風ですが、己の負けん気も相まって結構好きで。旗士だから知ってる素敵な特権です。

 

 特権こんなもんかなぁ。大変だけど楽しい。それが旗。

 

 

 旗の話の最後に、今後についても少し。

 

旗士はお祭りの場数踏んでなんぼだろと思ってるし、自分は「先代がもう来ないからやるしかない」という崖っぷちで頑張ってきたからこそ今があるので、引退後は旗を振らないつもりでいたんですね。それでかつ、私は旗士以外では斬桐舞に対する存在意義が無いに等しいと思っている(踊れないし)ので、引退したら練習にもお祭りにもきっぱり来なくなるつもりでした。

なのに神栖であんまりにも皆に褒められてしまって、もっとこういう振りしたいなぁ旗士辞めたくないなぁって思ってしまって、今後の方針がすごく揺らいでいるところですね。

きりきりでもう少し振らせてもらうのか、別のチーム探すのか、きっぱり辞めるのかはまだ決められなくなりました。どうしようかなぁ。とりあえず後輩が育つまでは隠居させてくれそうにないので来るつもりです。

 

苦しいことも多かった中で、結局は振る事が楽しいから踏ん張ってこれた2年の旗士人生でした。振らせてくれた斬桐舞の皆にも、振り方を一から教えてくれたもんさんにも、(もちろん旗竿と旗布にも)本当に感謝でいっぱいです。ありがとうございました。

 

旗の話、尽きねぇなあ。

 

 

―最後に―

 

引退しちゃったら辛かったこととか大変だったことを想い出として美化してしまいそうで「絶対に雙峰祭前に書き始める」と意気込んで書き始めたのに、書きたいことってなかなかまとまらないものですね。何週間にも渡って加筆して、それをまた修正して…。読み直す度に文法や言い回し等で訂正したい箇所が見つかり、でも文章量が多すぎて訂正しきれずこの最終版に至ります。これ、15400字弱あるらしいよ。

 

それなのに最後まで読んでくださった方、読んでいただきありがとうございます。でも、長いし重いって忠告したのに何で読んじゃうかなぁ…。

誤字脱字苦情感想その他何でも一応聞きます。余すことなく記した 斬桐舞 ナイン としての2年半を辿ってくださったことへの敬意として。

 

こんなに書いちゃったら引退式喋るネタないなぁ。ブログから抜粋にしようかな。でもそんなことしなくてもきっと山ほど喋れるんだろうな。濃いもん。

 

もう一度大学生をやり直すとしても、絶対に斬桐舞に入って、そして旗士になりたいと思えるくらいには、入ったことを後悔しない2年半でした。

 

本当にありがとうございました。

 

ナイン 






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